
自分は文章が書けない、という事実を突きつけられ、最近少し凹んでいる。
個人ブログと食べログを20年間も続けてきたのにこのありさま・・今まであまり意識せずいまのこうやってブログで文章を書いているのだけど、たぶん僕の文章はきれいではない。
きれいな日本語とは何か。
まずは以下3つ。
・文法が正しいこと。
・読み手のよって認識の違いが生まれないこと。
・社会人の誰が読んでも理解できること。
当たり前と思うかもしれないけど、書いてみるとなかなか難しい。仕事で規程を作ったり顧客に向けた手順書を作ったりしているのだが、作成したドキュメントを有識者にレビューしてもらうと、毎回膨大なツッコミが入り、非力さを思い知る。
20代の頃、もっと文章力は低かったのだけど、当時の上司は「ここがだめ」「インデントがおかしい」という”点”の指摘しかくれなかったが、「お前の文章は全体的にクソだから、この本を読んで勉強しろ」と言ってくれたら、40歳手前で少しはまともな文章が書けたかもしれない、とわがままを言いたくなる。結局その上司も体系的に学んだわけじゃないし、上司に全知全能の神を求めるのは違うわけで、こういう経験から後進に体系的な学びのきっかけを、そういう場面があれば与えてあげるのが、先人の努めと最近は思うようになった。
話を戻して、さらに読んでいて疲れない、長文だけど頭に入りやすいという要素を加えると、もはや一般人では作成困難になってくるように思える。AIで文章校正をしてくれるけど、AIが公正した文章のほうがわかりにくくなったり、意味がわかってしまう場面もあるのでまだまだ100%AI化は難しそうだ。それでも7割くらいはちゃんと仕事をしてくれるので、Copilotは常にON。助かる存在だ。
AIが生成する文章は、誰もが分かる読みやすい文章なのだけど、複雑な表現はできないように思うし、それを生成してもAIを使う読み手が理解できないと意味がないので、生成AI側は万人に理解しやすい文章を生成するようにしてくれているのだろ。生成AIが出力する文章は、一文が短く、箇条書きで、ややあいまい、という特徴があるように思う。今後生成AIが出力するものが世界の標準になっていくと思うと、人間側も「まぁここまででいっか」と頭を使うのと止めてしまうような気がして、複雑な事象を文字で伝え、残していく事は、別の方法に置き換わるのではないか、とふと思った。
そういえば、IPAの試験委員の方と一緒に仕事をした時に、なんてきれいで読みやすい文章なんだ、と感激したことがある。あんな人になりたいと、目標とする人が近くにいると日々の生活にハリが出る。