ばばちゃん

 
うちの父方のおばあちゃんがこないだ100歳を迎えまして
区長さんからお祝いの品やらなんやらをもらったので見せてもらいました。
おばあちゃんのことは小さい頃からばばちゃんって呼んでまして(なんか恥ずかしい記事だ)
自分の家の2階に自分から見たら叔父さんと一緒に住んでまして、
小さい頃から非常にお世話になっております。踊りの着物はすべてばばちゃん製です。
  
100歳になると品川区では
内閣総理大臣より銀杯、区長より銀の扇子、そして祝い金を少しもらえます。
写真はうpしないのでどんなものなのかは100歳まで生きたらのお楽しみ。
 
扇子のほうなのですが、「武比古」作と書いてあります。
実はうちから目と鼻の先に関工芸という銀製品を作る会社がありまして、
「関 武比古」さんの会社なわけです。ちなみに「武比古」という名前は先代より
継いだ名前で現在は2代目。このおじさん、よく近所でよく見かけます。
というかその人の家が5件隣だったのを忘れてた。
 
小学校の頃、特別授業でこの人が学校に来て、銀のキーホルダーを
みんなで作ってもって帰りました。今でも大切にとってあります。
これも純銀(確か)なので表面は汚れますが、拭けばすぐぴかぴかに戻るんですよ。
(高値で買い取ってもらえるのだろうか・・?)
 
近所の関工芸、ヤルネェ!
 
 
 
それでばばちゃんの小学生の頃の賞状なんかも見せてもらいました。
自慢のおばあちゃんです。ぎりぎり明治生まれです。
生きる歴史の教科書って感じです。昔話は聞いてて飽きないというか興味深いです。 
 
 
賞状ですが皆勤賞(昔は精勤賞と書いてある)やら成績優秀賞やらたくさん出てきます。
それも「荏原郡 平塚村 京陽尋常小學校 尋常科第三學年」とか書いてあります。
歴史の教科書キター!キタ━(゚∀゚)━!!!!!
尋常科ってなんだよ、って感じです。しかも印刷なんてない時代ですので
賞状が全部墨の筆書き。当時の人はめたくた字うまいです。うますぎです。
中学になるとご存知高等小學校という記載になります。
 
成績優秀だったので先生からも進学を勧められたのですが、
うちは農家で家を手伝わないといけないので仕方なく断ったそうです。
本当はもっと勉強したかったなんて漏らしてます。当時勉強できるのは
お金持ちの子でしたからね~。
(ちなみに現在ではわりと「いい所」で家賃も高いのですが、
 100年前は竹やぶと畑しかなかったんだよ。その辺母方の実家は
 昔からの下町でにぎやかに栄えてました)
 
 
その後関東大震災があり、戦争があり。
地震のことは全く語ってくれませんね、やっぱり。こっちは畑だったので
火災からは免れたようで(だから90年前の紙とかが残ってる)、母方の実家は
全部焼けてしまったそうです。だからそっちの家には昔のものが一切残ってません。
地獄絵図のような惨状だったそうですよ。隅田川に逃げ込んで、辺り一面の火の海を
ひたすら眺めるしかなかったようです。
 
 
それで100歳のおばあちゃんに話を戻すと、戦争では千葉に疎開してました。
辛い中、一生懸命生きた時代はよく話してくれます。
疎開先の家で途中から追い出されてしまたったり、配給はわずかな芋と麦、
食べ物がない時代に何時間か、かけて海に行って採ってきた秋刀魚の味は
今でも鮮明に残っておりとてもおいしかった、という話であったり。
疎開中は本当に劣悪な環境であったのだと聞いてこっちが辛くなります。
戦争では弟が戦死してしまい今でも「戦争なんかはいい事がない」とよく言います。
うむ、そのとおり。
 
 
その後地元に戻ってからは、ばばちゃんの旦那(自分から見て祖父)は獅子舞の踊り手や
お神楽で笛を吹いたり芸人(Notお笑い)をしつつ、うちは芋を売ったり、紙屋をしたりましたが
いまいち定着しません。ひょんな事から祖父が「焼き鳥」を誰かに教えてもらい
そこから現在に至るまでうちは「焼き鳥」屋さんです。
*ばばちゃんに言わせれば「焼き鳥」なのですが実際にはもつ焼きです。串焼きね。
*「焼き鳥」も親父は継がなかったから今の叔父さん(2代目)の代で最後っぽいです。
 テレビや雑誌にたまに出て味もおいしいですよ~。
 
 
 
なんか長々と歴史を語ってしまいました。
こういうの書くの結構好きなんです・・記録として後世にためにここに記す。

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